ニュートピア
カイチ・カマウさんは日本人で、30年程前にケニアに渡り、
そしてウガンダへ。タンザニア国境近くでNEWTOPIAと名付けられた
孤児院を開いている。
基本的には自身が日本に行き稼いだ、そのお金でやりくりし
ここに墓をつくり、死のうとしている人である。
ただ1人の日本人が、人生をかけて取り組めば
今この瞬間20人以上のウガンダ人を養えている、という事実がそこにある。
いろいろ思うところがあって、そこで10日ほど滞在した。
20人のウガンダ人寄宿生たちは4歳〜16歳(うろ覚え)で、
最初、名前と顔が一致せず、ようやく服の柄と一緒に覚えたら、
次の日には服が別の子に着せられていて、なんやこのシャッフルゲームは!と、
一から覚えなおしでまいった。
けれど、名前を覚え、一人一人の個性を垣間見ると、
途端にどの子もが可愛く思えたのは、
へー、と思いもよらない自分の発見だった。
ただ、孤児院にきていながらアフリカの子供云々より
心動かされたのは一日の生活どの場面でも徹底して行われていた
ここの「節約」生活だった。
度肝を抜かれたのは水の節約で、
遠くの井戸から汲んできた水はほんとうに「一滴」も無駄にしない。
鍋蓋を洗って干している、
その下には滴る水を受けるコップが置いてあって、
たまったその水をまた利用する。
食器を洗う水、服を洗う水、そこまで使うかというほど
ドロドロになるまで使われ、最後は畑に撒かれる。
火も無駄にしない。
料理を作っているとき、空いたカマドにまだ火がのこっていると、
すぐに水の入ったヤカンを載せる。
子供と一緒に作業をし、生活するとわかってきたのだけれど
これらの節約は単にお金・資源を節約するためではなくて、
水を節約すれば、水汲みが楽になるし、
火を節約すれば、薪拾いが楽になる。
そういう一つ一つの作業が他の作業につながり、さらに
自分の身に関係してくる、という考え方のクセを躾けることに役立っている。
そして、僕にとっては、この
自分のやる事が自分の衣食住にダイレクトに関わってくるというのは、
どう考えても気持ちのいいことだった。
蛇口をひねれば、限りなく水が出てくる日本に生まれ、
水道料金は単なる数字であって、
身にしみるようなその価値はわからない。
水だけではなく、肉も野菜もガスも電気もなにもかも、
どのように作られて、どのように運ばれ、
今自分の手元にあるか実際は正体不明、価値不明で、
モノや食べ物がどういう風に自分に関係し、喜びを与えているか、
逆に何がどう邪魔をしているか、
というのをうやむやにせずにいることは難しい。
ここでは、
この前のクリスマスや元旦には、育ててきたブタやウサギを
つぶして皆で食べたんだと、あぁあ羨ましい。
遍路中に知り合った禅宗のお坊さんは、
勤め人をしていた自分の半生を、無明の犬畜生の生活と呼んだ。
四と九のつく日しか体を洗えない雲水の生活、
結局、胸にカビを生やしてぶっ倒れたの懐かしんで、
贅沢な生活だったと言ったのを思い出す。
ほんま、帰っても飽きることのない贅沢な生活を送りたいなぁ。
どこでもなんでもなにしててもいいから
思いがけず身にしみるようなそのものの価値に
繊細でいることが僕を生き生きとさせてくれる予感がする。