富士山でのアルバイト


気温が9度や10度の日があると、富士山での40日間泊まり込みのアルバイトを思い出す。富士山の8合目もそのぐらいの気温だっただろう、厚手の長袖では少し寒いぐらいの、そんな気温だった。
 

 そのアルバイト先は、夏のリゾートバイト特集をやっていたアルバイト雑誌で知った。北海道の旅館や、長野のキャベツ畑の収穫アルバイト、色々あった中からなぜこのアルバイトを選んだかは、今となってはわからない。ただ、稼ぎがよいこと、変わったことができること、当時そういった考えをもっていたことはなんとなく覚えている。
7月1日から富士山は山開きするが。7月20日、学校が休校になるのを待って私は富士山に登った。
 

 富士山の頂上に登るには、5つの登山道がある。富士宮、富士吉田、川口、須走、御殿場。私の働いた山小屋は御殿場口にあった。御殿場口は、5つの登山道の中でも最長である。登りの平均所要時間は8時間、他の登山道は5時間程度だから、その過酷さゆえに登ってくる人は少ない。その少ない客を補うために、我々アルバイトは、他の道から客引きする仕事があった。三日に1回。アルバイト3人が交代で客引きに行く。プライベートな空間がないせまい山小屋で何日も暮らしている身には、一人になれる客引きが唯一の楽しみであった。
 

 富士登山は観光である。実に色々な人が登ってくる。元レスキュー隊の屈強な体をもったおじいさん。東京から話のネタに登ってきた女子大学生。サンダルにTシャツといういでたちのインドネシア人。皮細工職人。船長さん。そんな人達に消灯までの数時間、山小屋の焜炉を囲んで聞いた話は、驚きにあふれ、今でも忘れられない。
 

 アルバイトの仕事は、朝夕の飯の支度、布団敷き、掃除。そういった単調なものから山道の整備、ゴミ捨て用の穴掘りなど建設現場並のハードな仕事まで様々である。自分たちの飲み水を確保するのも仕事である。炊事・洗濯・お風呂、すべての水は貯めた雨水で行う。富士山はよく雨が降る。山の天気は変わりやすいというが、今日は終日快晴と下界のテレビが言っていても富士山は雨だったりする。雨水で炊いたお米は独特の臭いがするが、
不味くはない。朝は卵焼きとハムを焼く、味噌汁もつくる。夕飯はカレーだ。ジャガイモと人参、タマネギを大鍋いっぱいに放り込み、ルーを何箱分も溶かしこむ。すり下ろしニンニクを隠し味でいれたカレーは、食欲を増進させ、何杯もおかわりをした。ただし、何十日もカレーばかり食べていると、さすがに嫌気がさしてくる。あっさりと、納豆ごはんで済ましたり、皆工夫をして40日を乗り切った。
 

 富士登山のハイライトは雲海から登る朝日(ご来光)を拝む瞬間である。ご来光の時間は朝5時ぐらいだ。もちろん8月末にはもっと遅くなる。すがすがしい朝の空気の中、皆が登山道に並び朝日を見る光景は、傍から見て壮観である。
 富士山8合目はすでに標高3500mを超えており、高山病になる人が多い。私も着いた当日は頭痛で眠れなかった。2、3日過ごすと体が順応するのだが、登山客はそうもいかない。せっかく8合目まで登ってはきたものの、あまりの頭痛で頂上に行く気力がうせる人は多い。一人ならまだしも、パーティで来ている人は、山小屋に残り、「私の分まで頂上を楽しんできて」などと、センチメンタルなことを言ったりする。今のような下界にいると想像しがたいが、8合目では片足を半歩前にだすだけで、息が切れる。10歩歩いては休み、また10歩歩いては休み、の世界である。そのような登山客を後目に、体が順応している我々は岩をぴょんぴょん飛び越え、下界と同じように走ったりするわけだから、気分がよい。超人になったようであった。下界に帰る日が近づいてきた頃、我々アルバイトの間でよくでる話題があった。下界に帰れば、酸素が濃いから体がよく動く。走りたくて仕方がなくなる。宇宙から帰ってきた人が地球では動きが鈍くなるのと逆のことだと。昨年もアルバイトに来ていた年長の人が真顔で言うので、信じてしまったのである。
 

 8月30日、客が全く来なくなったので、一日早く小屋を閉めることになった。部屋の隅の埃まで丁寧に取り除く、そうしないと木と木の間に詰まった埃が水分を吸って凍り、建物を歪めてしまうのである。窓や扉は木でふさぎ、そのうえから石を積んで覆う。帰りは、御殿場道名物の砂走りを大股で下る。こけても砂地だから痛くはない。登りに8時間かかるところを、1時間もかからずに降りた。山小屋の赤い屋根が遙か遠くに見えた。
下界は真夏で暑かった。山小屋のご主人の車に乗り、荷をおろしてアルバイトは終了。日給が8000円だったので、30万そこそこの予定だったが、お小遣いだといって、40万いただいた。ボーナスがでたということで、アルバイト3人で東京へ繰り出した。一刻も早く、酒が飲みたいところであったが、まずは銭湯に行き、40日間の垢を流した。下界におりても、噂のように体が動かないのはどうしてだろうかと思ったが、風呂場の鏡で毎晩のカレーで膨らんだ腹を見て納得した