寮生活の思い出

私は大学に6年間通ったのだが、入学からの4年間を大学の敷地内にある寮で暮らした。
寮の名前は「向陽寮」という。名前通り、日差しをいっぱいにうける建物であった。鉄筋の5階建てで、エレベーターはない。私の部屋は不運なことに抽選で5階になり、4年目にはさすがに登ることが億劫になった。
 

 そんな向陽寮での生活を私は今でもよく思い出す。その思い出に耽ることが楽しみでもあるほど、私はここでの生活が楽しく、貴重な体験をさせてもらったと思う。
向陽寮は1階ごとに左右に扉があり、その扉を開けると8つの個室とトイレ、洗面所、台所、そして、申し訳程度にバルコニーがあり、それはなぜか北側にあった。その8部屋をユニットとよび、ユニットごとに清潔さや人間関係の濃さに差があった。あるユニットはあまりの汚さに通称「ジャングルユニット」と呼ばれていた。そのユニットに住むことになったペルーからの留学生は一夜を過ごしただけで母国に帰ってしまった。私のユニットは単純に通称「5階右ユニット」と皆呼んだ。単純に計算すると8人×1フロア2ユニット×5階だから80人が住んでいるわけだが、こっそり同棲する人やらで(無論男同士ではなく)、もっと人が居たような気はする。そうそう、言い忘れていたが、お風呂は共同浴場。一つの湯船に80人がつかる。掃除もお湯貼りも自分たちで行うわけで、ご想像どおりの有様だった。「風呂場でうんこするな!」という張り紙を見た覚えがある。


 個室は5畳ほどで縦に長いうなぎの寝床。備品として、机と棚とベッド、収納力のない鉄製の箱。それらを各自が自分勝手に配置したり、一時的に捨てたりして男子大学生らしいおしゃれな部屋に改造する。私はベッドを部屋の奥に立てかけて押し込み、ベッドマットを直接床の上に置いた。ベッド下の収納スペースはなくなるわけだが、その代わりに5畳の部屋がずいぶん広く見えた。1ユニット8部屋のうち、運悪くも2部屋はバルコニーと同じ側の北向きの部屋だった。夏は風が通らず湿気が籠もり、冬は日が入らず極寒。私の同期で同じユニットに入った人間は南側の住人だった。彼はユニットの入口から一番遠い部屋で、静かで日当たりもよく、彼の部屋に行くといつも私はうらやましく思った。とは言っても部屋を仕切る壁は厚く、隣の音は全く聞こえなかった(個室のドアはご丁寧に通気口付きだったけれど)。


 その彼はドイツ語専攻、その隣は英語専攻の人、その隣はスペイン語、その隣は忘れてしまったが、その隣もスペイン語、その隣は中国語、その隣は朝鮮語、私と同じ境遇の隣人は一つ年上の先輩でハンガリー語専攻だった。入寮当時はまだ、携帯電話も普及してなかったので、代表電話が一機備え付けられていた。外国語大学だったので、外国人から電話が会ったらどうしようと入寮当時は気構えていたのだが、そんなことを考えているうちに、各部屋に電話が取り付けられ、クレジット式のその電話のシステムを面倒くさがっているうちに、携帯電話が普及した。
 

 年が変わると、ユニットの人間も変わる。中国語の人が抜けた代わりに入ってきたのが、韓国からの留学生で、柳(ユ)さんと言った。柳さんは来た当初から日本語とギターがとても上手だった。初対面の人には「僕、在日です」と微妙な冗談をいつも言っていた。この人は遊び好きで。ビリヤードにもよく連れていってくれたし、私に焼酎のおいしさも教えてくれた。
その人が抜けた後は、孔(ゴン)さんというまた韓国からきた留学生だった。孔さんは兵役で最強レンジャー部隊にいたそうで、ギターは弾けなかったが、私達に一撃必殺の技を教えてくれた。もはや誰も使わなかった寮の固定電話に毎晩チェックの電話をかけてくる母国の彼女をおそれて、いつも10時には寮にいる律儀な人だった。日本語の勉強も熱心で、しまいには広辞苑で瓦の種類まで覚えようとしていた。
孔さんが抜けると、チュニジアからウェイルという若者が来た。彼とは半年の付き合いでそれほど仲良くはなれなかったが、イスラム教の断食月を一緒にすごせたのは幸運だったし、不運でもあった。日中彼が何かを飲んだり、食べたりしていていないのことを確かめる術はなかったが、日が暮れると彼は友達を呼んで食事会をした。それが連夜の大騒ぎで、我々は2002年9月11日の事件直後だったためか、イスラム教の彼にいい印象を持てなかった。彼の友人が勧めてくれた水タバコはどうもスースーするだけで味気なかった。


 日本人のメンバーは、2年ごとに変わった。出身地も北は北海道から南は宮崎まで。専攻語も北はスウェーデンから南はアラビアまで。特に私の2年後に入ってきた4人組は仲がよく、在学中から演劇を一緒にやり、夜遅くまでせりふを覚えていた。そのころのメンバーは料理がうまかったり、歌がうまかったり、何かしら特技を持つ人間が多く、輝かしいユニットの一時代だった。
台所では、よく飲み会をした。皆がお金のない人間だったから、つまみや料理は自分たちで作った。焼きそばは定番だった。先輩が残していってくれた大きなホットプレートに3玉100円の中華麺とキャベツにニンジン、ソーセージをいれたりして、最後にソースをぶっかけて終わりだった。24本入りの缶ビールを一箱買ってきて、それを飲み終わる頃には、皆酔っぱらう。そして、誰かが言い出すわけでもなく、ギターを中心にして、少し前に流行った歌や誰か一人が知っているフォークソングを歌った。


 夏は冷房がないので、扇風機で過ごした。扇風機もなかった人間は、濡れたタオルで体を拭いて涼をとっていた。それでも、耐えきれない熱帯夜には皆で学校のプールに忍び込んでよく泳いだ。女子寮のグループと鉢合わせになり、真っ裸の私はなかなかプールからでられなかった覚えがある。


 冬は寒かった。暖房はもちろん無い。灯油は使ってはいけないことになっていたから、皆電気ストーブだった。ただし、一人400wまで。それ以上使うと、ユニット全体のブレーカーが落ちた。あまりの頻度で落ちるので、そのうちパチと電気が消えても、誰かいけよ、と様子を窺うようになったものだ。冬は台所でよく鍋をした。鍋の蒸気で、ユニット全体が暖かくなったし、心も非常に温まった。


 寮の近くにある留学生の宿舎は屋上が開放されており、流星群が近づいた日には友達を誘って、真っ暗なその場所に集った。覚えているのはどれも冬の流星群だ。部屋から持っていった毛布にくるまって、天頂を向いて屋上に寝そべった。他にも何グループも来ていて、「アッ」とか、「見えた!」とかいう声やため息が聞こえてきた。当時、我々の大学は大阪平野を南に一望できる北摂の山の麓にあったが、北側には山しかなく漆黒の世界だった。一人で居れば闇に食べられてしまいそうなほど夜の空は暗かった。
秋にはカメムシが大量発生した。主に北側の山から彼らは飛来し、北側の住民を脅かした。窓を開けると、サッシの隙間に入り込んだ4,5匹の塊がボトボトと腕の上に落ちてきた。洗濯物を取り込むと、Tシャツの裏側に彼らはいるし、出先で何か臭うと思えば、背中にいつの間にか付いてきていたりした。


 こうやって思い返すと、何もかもいたって普通の経験なのだけれど、なにか輝かしく思い出される。大勢で春夏秋冬、台風の日、大雪の日を過ごし、生活を共にした日々は思い出しても尽きることがない。


 人より遅く目覚める休日の朝など、窓の外で誰かが原付のヘルメット入れを閉める音を聞くと、向陽寮での気ままな日々を思い出す。