アンカラ
カッパドキアを出て3日目。
17通目の手紙配達。
アンカラで手紙を渡すには、
もう少し時間をかけたほうがいいと直感めいたものがあって、
グルジア、アゼル、イランと遠回りしてやってきた。
遠回りした分の日々はこの手紙のものだ。
カナエさんから預かった手紙は
9年前にお世話になったトルコ人ホストファミリーへのもの。
カナエさんと僕は大学が同じで、その留学当時のことも知っている。
以前、連絡をとると
「9年間も連絡を取ってないから、きっと怒っているよ。
怖いなあ、手紙が届くのが。」
と心配していた。
そう言われるとなんか僕まで怒られそうで心配だ。
でも、頻繁に連絡を取らなくても大切な人は大切なままだ。
そういうもんだ。
お父さんのエンデル・ギュルタン氏は当時48歳。
お母さんのサアダトさんは42歳。
同い年の娘のオズゲは21歳。
その弟のオズギュルは17歳だった。
会ったことはないけれど、
当時
「オズゲがさあ…」ってよく聞いていたものだから
かってに僕は親近感をもっている。
アンカラまで170km。
こうして僕がこいで、手紙が届くその瞬間が着々と近づいていることなんて
露知らず、今もアンカラの家族は日常を営んでいるんやろう。
もう少しで首都だというのに、
まだまだ野っ原が広がる。
そして
あぁ、アンカラや。
Nüfusは人口という意味。
トルコの標識は優れていて標高までちゃんと書いてあるし、
距離もかなり正確に街の中心までを測っている。
(他の国は、市の境界までの距離だったり、
統一されていなくてとにかくメチャクチャだ。)
最後の峠のあとは中心地まで急な坂を下る。
『家は中心地のクズライの横のマルテペというエリアにあります。
地下鉄駅マルテペから歩いて5分。庭のあるアパートの一階です。』
午後3時、その中心地クズライに着く。
「マルテペはどこですか?」
マルテペに着いてカフェに入った。
もうすぐそこだと思うと緊張してしまったので、
ちょっとゆっくりしたい。
ここまで長かったんや。
さて、
「チェティンゲルウ通りの12/2番地はどこですか?」
手紙に書かれた住所を頼りに人に聞きながら
住宅街に入り込んでいく。
それらしきアパートを発見する。12番地。
でも窓から顔を出している人は写真のお父さんとは違う人。
それに庭はない。
もしかして、新しいアパートに建て変わったんかぁ。
「どこに行くんだ?」
近くの駐車場で水まきをしていた人に聞かれて、手紙を見せると
いやこれは2番地だからあっちだよ、と連れて行かれる。
なんや。
2番地に行ってみる。
アパートはあるけれど、あるはずの庭がない。
やっぱ建てかわって家族は引越してしまったのか、と意気消沈。
近くのお店でおっちゃんと共に手紙を見せて聞いてみると
「何やってるんだよ、これは12番地の2、だから裏側の家だよ。」
と呆れられる連れて行ってくれたおっちゃん。
「あ、宛先はギュルタンさんじゃないか。なーんだ。」
僕「あなたはギュルタンさんを知っているんですか?」
お「知っているよ。」
僕「今日ギュルタンさんはいますか?」
お「いるいる。」
おぉ。
アパート近くまでいくと
お「ギュルタンさーん!日本の友達が来ましたよ!」
と、奥の方、車と車の間から見えた人の顔は
まぎれもない写真のギュルタン氏のその顔だった。
あぁ。
ギュルタン氏、僕を見てすこし不思議そうな顔をする。
不自由なトルコ語で説明しても埒が明かないので
手紙を渡す。
「カナエを知っていますか?」
「知っている。知っている。」
「まぁ、座ってコーヒーでも。」
と12番地の裏側にまわると庭のある家があった。
静かなギュルタン氏。あんまり感動はしていないようだけれど、
僕が笑うと笑ってくれるようになった。
「奥さんはどこですか?」と聞くと上を指差し、
オズゲは?オズギュルは?と聞けば右を差す。
よくわからないけれど、とにかく皆今もこの家に住んでいるようだ。
ひと安心。
物静かなギュルタン氏と一緒にいると、
社交性の乏しい僕との相乗効果で会話が途絶えた。
と、外から怪訝な様子で僕を見る女性に気がついた。
髪を短くしていて気づかなかったけれど、その人がお母さんだった。
お父さんから説明をうけた途端に、
感情を昂ぶらせてお母さんはトルコ語でバーっとしゃべる。
「カナエはとーっても○×■▽、とーっても私は○×■△!!!」
なんか空中にキスしまくっているから、きっといい意味なんだろう。
お父さんと対照的な性格だ。
娘のオズゲは
4ヵ月後に結婚式があるんだと教えてくれた。
パソコンでオズゲの婚約パーティの様子をみていると、
そこへ長身の青年がきた。
「オズギョルです。」
そして、その後に帰ってきたのがオズゲ。
あぁ、あなたがオズゲ。
オズゲは言葉にならない声で叫ぶと
「来てくれてありがとう!」と言い、
「あぁ、私はずっとカナエを探していたの。
Facebookもやっていないみたいだし、アドレスも変わっているし。」
「日本人が来ると、カナエの連絡先を知っているか聞いたんだけど、
誰も知らなくて。」
オズゲは英語が流暢なので、通訳してもらってやっと皆と
まともな会話ができるようになった。
ぼ「連絡しなかったことを怒ってますか?」
オ「とんでもない!私達家族は今でもカナエが大好きなの。
知ってる?カナエは私達にとって初めての外国の子供だったの。
カナエが礼儀正しくていい子だったから、その後も4人の日本人を受け入れたのよ。」
皆で夕食を食べる。
上に住んでいるおばあちゃんもやってきた。
老眼鏡をはずして手紙を読み、
「カナエのトルコ語は今もすごくいいね。」と。
あの皆でちらし寿司を食べていたキッチンへ行く。
見せてくれたのは、冷蔵庫に貼られた写真。
そこに見知った顔があるのが、理屈はわかっていても
なにか不思議で神秘的だった。
他の4人の日本人に比べて一際色あせている顔写真。
母「カナエが出てから9年間、ずっと貼っているのよ。」
9年間である。
色あせた写真を見て思う。
何もせずに9年間という月日は過ぎてくれない。
僕がオズゲという名前を知ってからの9年を
彼らも日本との時差7時間の後にきっちり
それぞれの人生のなかで毎日過ごしてきたんだと。
そして僕が去ってもこの家族は
またコツコツ月日を積み重ねていくんだと。
そんなことが今とても腑に落ちる。
「あぁ、そうだ!」
「カナエに私も手紙を書こう!たくさん書くのよ、9年間分の出来事があるんだから。」
ということで、お母さんとオズギョル、オズゲ。3通の手紙を預かった。
いつになるかわからないけど、またこれも配達する。
「カナエとの一番の思い出?」
オズゲが答えてくれた。
2002年のワールドカップ、決勝トーナメントでトルコVS日本の試合。
「クズライの大きなスクリーンの前で、私はカナエを肩車して観戦したの。
カナエは私の上でこうやって手を振って、
トルコ語で「トルコ頑張れ!どっちも頑張れ!」って応援したの。」
光景が目に浮かぶ。
熱気のこもるアンカラの中心、はためく赤い国旗、大勢のトルコ人。
肩車をした二人。
にほんブログ村←横のバナーを押すと、ランキングがあがります&見えます
■■■■■■計画協力企業■■■■■■
★株式会社オージーケーカブト★株式会社モンベル★アズマ産業株式会社
★株式会社アルテリア★株式会社モチヅキ★株式会社キャットアイ
★株式会社エバニュー★株式会社エイアンドエフ★有限会社トヨクニ
★サムライ日本プロジェクト★大法紡績有限会社★有限会社東江物産
★株式会社マルイ★株式会社ティムコ★挨拶状ドットコム
★モベルコミュニケーションズリミテッド